2012年2月25日土曜日

We, the Web Kids.日本語訳

ZEIT ONLINEに投稿されたドイツ語の記事 "Wir, die Netz-Kinder" はCreative Commons 3.0 Unported Attribution-Sharealike Licenseで公開されており、その英語翻訳 "We, the Web Kids."を公開した人もいる。

日本語に、ザクッと超訳しておこう。

頭書きははしょる。ちなみにweは「僕ら」youは「昔の世代」と翻訳したのは、日本語だとその方がわかりやすいと思ったから。

1.
僕らの世代はインターネットと共に、そしてインターネット上で育ってきた。僕らが昔の世代と異なるのはそのためで、この違いはとても重要なことなのだ。「インターネット」と聞くと、古い世代の人達は「インターネットサーフィン」とか思うのだろうが、僕らは別にネットーサフィンなんてしているわけじゃないし、僕らにとってのインターネットは「場所」とか「バーチャルな場所」なんかじゃない。僕らにとってのインターネットは、生活の外にあるのではなく、生活の一部なのだ。既に物理的な生活環境の一部となっていて、目には見えないけれど常にあるレイヤーみたいな感じ。インターネットは使うのではなく、インターネットは生活の中に既にある。人生経験の全ての局面に「自然インターネット」みたいな物が常に存在していて、僕らの成長にはそれが介在していた。友達も敵もネット上で作ってきたし、テストのアンチョコはネットで作ったし、パーティも勉強会もネットで企画し、恋愛も失恋もネット上で起きた。僕らにとってのウェブは、勉強したり、管理する「テクノロジー」なんかではない。ウェブは僕らにとって、目の前で常に何かが起き、何かが変わっていく、僕らと共にあり、僕らを通じて発生する「プロセス」なんだ。色々な新しいテクノロジーが現れては消え、ウェブサイトが作られて花開いては死んでいくけど、ウェブはずっと続いていく。なぜなら僕ら自身がウェブだからだ。僕らは僕らにとって自然な形でコミュニケーションをとっているに過ぎない。そしてそれがどんどん密度が濃くなっていき、歴史上最も効率的なコミュニケーションになってきている。

ウェブ上で生きてきた僕らは、物の考え方が昔の人とは異なる。昔の人は知らない街で電車の駅を見つけたり郵便局を見つけるのが難しいと思うのだろうけど、僕らにとって情報を探すのはキホンだ。何か知りたいと思ったら、それが水疱瘡の初期症状であれ、エストニアの没落の理由であれ、水道料金が異常に上がってしまっていないかを確かめることであれ、僕らは調べることができる〜衛星カーナビつきの車を運転するぐらいの精度で確実にね。色々なところにある情報をどうすれば見つけることができるか知っているし、どうすればその情報がある場所を見つけられるかも知っているし、どうすればその情報の信頼性を確認できるかも知っている。一つの正解を見つけるのではなく、たくさんの異なる回答を見つけてきて、どれが最も確実性が高そうなのか、どれが信頼度が低そうなのかを判断するのが僕らが学んできたやり方だ。僕らは情報を選択し、フィルタリングし、覚え、そして学んだ情報を更に新しくてベターな情報が出てくるにつれて書き換えていくことも学んだ。

僕らにとって、ウェブは共有された外部メモリみたいなものだ。不要な詳細情報は僕らにとっては覚える必要がない。日付とか、数字とか、数式とか、条件とか、道の名前とか、細かい定義とかね。僕らは情報を活用するための概要や、エッセンス、そしてそれがどう他と関係するのかを知っていればそれでいい。詳細が必要になれば、数秒もあればその情報は調べられる。僕らは全てのエキスパートになる必要なんてない。僕らは、僕らが知らないことについての、信頼出来る専門家をすぐに見つける方法を知っているからだ。専門家の人たちが僕らに情報を共有してくれるのはお金のためではない。情報は流動的なもので、情報は自由であるべきで、情報交換はみんなにメリットがあるという、僕達が共有する信念に共感してくれるからだ。毎日人は学び、働き、問題解決をし、興味を追求している。僕らはどうやって競争するかを知っているし、競争するのも嫌いじゃない。だけど僕らの競争や人と異なっていたいという願望は、知識の礎のもとにあり、情報を解釈・活用する能力に基づくもので、情報を独占しようという目的からくるものではない。

2.
文化的生活に参加するのは僕らにとってあたり前のことだ。グローバルなカルチャーは僕らのアイデンティティの一部であり、それは伝統的な慣習とか歴史とか社会地位とか出自とか自分が使う言語とかよりもずっと重要だ。膨大なカルチャーイベントの中から、自分に最も合うものを選び、参加し、レビューし、目的に合ったウェブサイトにそのレビューを載せ、そうすると他の音楽アルバムや映画やゲームなど、自分に合いそう物が提案されてくる。そうした映画や動画は、世界中の同僚や友だちと一緒に見ることになる。その趣味は世界中のごく一部の人にしか理解されない物かもしれないし、それらの人たちは一生リアルには会うことがない人かもしれない。だからこそ、カルチャーはグローバルに同時多発的になっていき、より個人別になっていくのであり、そうしたカルチャーに自由にアクセスできることが重要なのだと思う。

僕らは、全ての文化作品が無料で手に入るべきだと言っているわけではない。僕らが何か創りだした時には、他の人が自由に使えるようにするのが普通だけどね。テクノロジーが普及して、プロしか作れなかったような高品質の映画や音楽ファイルを誰もが作れるようになってきたとはいえ、クリエイティビティには労力と投資が必要だってことは僕らもわかっている。僕らはお金を払うことに抵抗はないけれど、流通事業者がとっている莫大な手数料は大きすぎないかって気はしている。情報の流通がこんなに簡単になり、オリジナルのクオリティをそのまま保った完璧なコピーを流通できるようになった今、なんで僕らは流通事業者に手数料を払わなければいけないんだろう?情報だけを得たいなら、情報に見合ったお金を払えばいいはずなのに。お金をもっと払うこともやぶさかじゃないけど、だったらその分の対価を求めてもいいはずだ。面白いパッケージとか、ガジェットとか、より高品質のものとか、ファイルのダウンロード時間を気にしなくても今ここでこの瞬間に視聴できるようなオプションとか。僕らはアーチストに敬意を表したいと思っているし、アーチストに対価を払いたいと考えているんだ。(僕らにとってお金は紙幣じゃなくてスクリーン上の数字の羅列で、お金を払うことは払う方と貰う方の両方にとってメリットのある、象徴的行動だと思ってる)だけど、企業の営業成績なんかに興味はない。企業が伝統的な形で営業を続けられなくなってきているのは、別に僕らのせいなんかじゃない。やったことがないことにチャレンジするとか、無料で手に入る物以上の価値を提供するアプローチをするとか、そういうことをせずに時代遅れのやり方を守ろうとしたせいなんじゃないかな。

あともう一つ。僕らは思い出のためにお金なんか払わないよ。子供時代を思い出すような映画とか、10年前はやった音楽とか、そんなのは僕らの外部脳ネットワークにとっては思い出でしかない。それらを記録し、やりとりし、使うことは、僕らにとっては自然なことなんだ。僕らは自分達が子供の頃に見た映画をオンラインで僕らの子供に見せるよ。それは昔の人が赤ずきんの絵本を子供に読み聞かせたのと同じことで、それを違法だとは考えにくいよね?

3.
僕らは自動引き落としに慣れているから、口座の残額さえあれば自動引き落としにする。新しい銀行口座を作ったりモバイルのキャリアを変更するのは単にオンラインのフォームに書きこんで契約にサインすればよいし、ヨーロッパを旅してどこかの街で観光をするのなんて2時間で予約ができてしまう。だから、市民サービスのユーザーとしては、あまりにインターフェースが古臭くて、悩まされてしまう。なぜ納税手続きのために何個もフォームを書かなければいけないのか、しかもそのフォームには百個も質問が並んでいるということは理解に苦しむ。なぜ本籍地から外の住所に移るのに公式認定が必要なのかもわからない〜僕らの介在なしには役人同士でコミュニケーションできないとでもいうのかな。(本籍地なんて馬鹿げた物の必要性についてはここでは論じないけど)

僕らの両親たちが持っていたような、行政手続きが重要だとか、国とのやりとりを重要視して喜ぶべきなんて気持ちは僕らはもっていない。かつてお上に対して存在した尊敬の念は、市民たちと雲の上の存在である権威との間には大きな差があるという認識から生まれていたけれど、僕らはそんな風には感じていない。僕らの考える社会構造は、昔の人とは異なるんだ。社会はネットワークであり、ヒエラルキーではない。僕らは相手が教授だろうが芸能スターだろうが、誰とでも会話を始められるということに慣れているし、話をするのに社会的地位や資格が必要だなんて考えていない。対話が成功するか否かは、自分たちのメッセージが相手に重要視されるか、回答するに値するものかのみによって決まる。そして、様々な議論を通じて、僕らの方がよりよい意見をもっていると考えられた場合、僕らが政府と直接真剣な対話をすることができると考えるのは当たり前のことだと思う。

僕らは現在の形での「民主主義制度」に対して特段な宗教的な敬意を持ったりはしていないし、その公理的な役割も信じていない。「民主主義制度」それ自体を何かの記念碑のように考えている人々とは違うのだ。記念碑なんかいらない。僕らは、僕らの期待に沿うような結果を出してくれるシステムを求めているのであって、そのシステムは透明性が高く、効率的であってほしいのだ。そして僕らは変化を起こすことは可能だと考えている。よくないシステムはより効率的で、ニーズに合い、可能性を広げるような新しいシステムとすげ替えられるものなのだ。

僕らがもっとも価値を感じているのは「自由」だ。言論の自由、情報や文化へのアクセスの自由。ウェブの自由はまさにそれで、その自由を守るのは僕らの義務だと思う。自然環境を守ることと同様、ウェブの自由を守ることは次世代の人たちに対する僕らの義務だと思う。

僕らはちゃんと名前をつけてはいないし、みんなあまりよくわかっていないのかもしれないけれど、僕らがほしいと思っているのは、「本物の民主主義」なんじゃないかと思う。ジャーナリズムが夢見たよりももっと本当の民主主義。



Disclaimerこのブログは山崎富美の個人的なものです。ここで述べられていることは私の個人的な意見に基づくものであり、私の雇用者には一切の関係はありません。